■ ■ 根室の歴史 ■ ■

History of NEMURO.


■Nemuro City Offical Movie

「根室市制施行50周年記念式典動画」

〜写真で振返る50年の歴史〜






■ ■ 未開拓時代 ■ ■

Undeveloped era

■8000年前(多文化・未開拓時代)

  •  根室には約8000年前からの遺跡(続縄文文化・擦文文化・オホーツク文化・アイヌ文化)が 点在し、人が暮らしていたことが解っている。発掘調査などによりそのころの生活をうかがい知ることはできるものの、詳しいことは判明していないのが実状である。


■飛鳥時代

  • 飛鳥時代の斉明天皇のころ阿倍比羅夫が樺太で征討した粛慎は、当時根室国域にも及んでいたオホーツク文化圏に属する人たちと言われている。オホーツク文化は平安時代前期ころ擦文文化の影響を強く受けたトビニタイ文化へと移行し鎌倉時代ころまで続いた。



■鎌倉時代

  • 鎌倉時代から室町時代にかけて、日の本と呼ばれる蝦夷(えぞ)が根室国域を含む北海道太平洋岸や千島国域におり、蝦夷沙汰職・蝦夷管領はこれを統括していた。




■戦国時代

  • 戦国時代から江戸時代にかけて、蝦夷の人々によって根室半島を中心にチャシ群が築かれている。

■根室関連名所

※根室半島チャシ跡群



■江戸時代

  • 江戸時代に入ると、1615年(元和元年)から1621年(元和7年)ころにかけて、メナシ地方(現在の目梨郡羅臼町、標津町周辺)の蝦夷(アイヌ)が、100隻近い舟に鷲の羽やラッコの毛皮などを積み、松前に行き交易したとの記録が松前藩の「新羅之記録」に記載されている。また根室国域には松前藩によって松前藩家臣の知行地としてネモロ場所が開かれていた。当初はアッケシ場所に含まれたがキイタップ場所を経てネモロ場所となる。

「新羅之記録」:和人による北海道支配の成立過程をこれほど詳細に記録したものはなく、まさに北海道の古事記とも称すべき文献といえます。



■ ■ 開拓時代 ■ ■

developed era

■宝暦時代(開拓の始まりと戦いの序章)

  • 1754年(宝暦 4 年)高田屋嘉兵衛が初めて納沙布の航路を開き、同年、松前藩が国後場所を開いて根室に運上屋を置いたのが根室の開拓史の始まりである。当時、松前藩は北海道各地で貿易と漁業を商人に請負わせ税を徴収していたが、藩や商人によるアイヌ民族への圧政は北海道各地 でアイヌ民族の蜂起を招いた。

■根室関連名所

※金刀比羅神社 高田屋嘉兵衛像




■寛政時代

(和人とアイヌ人の争い)

  • 1789 年(寛政元年)根室でもクナシリ・メナシの戦い」が起こり、和人 71名が殺され、蜂起したアイヌ人37 名がノッカマップ運上所前(現:根室市牧の内)にて処刑された。この歴史は納沙布岬に立つ石碑「横死七十一人之墓」に残っており、毎年和人・アイヌの犠牲者合わせて 108 人を供養するノッカマップ・イチャルパ という儀式が行われている。


(開拓探訪とロシアとの初交流)

  • 近藤重蔵、※最上徳内、※松浦武四郎などが探検に訪れた。

 江戸幕府は、寛政11年(1799)に北方領土を直接統治することにし、近藤重蔵をその任務にあたらせ、海の豪商といわれた商人の高田屋嘉兵衛を伴って北方領土にむかう。近藤はその前年の寛政10年(1878)に、最上徳内を案内役にして国後島から択捉島にかけて調査を行った際に、タンネモイという場所に「大日本恵登呂府」と書いた標柱を建てて帰る。

 

 その後寛政12年(1800)、高田屋嘉兵衛が苦労して航路を開拓し、再び択捉島へ渡りカムイワッカオイの丘に、近藤が建てたのと同じように「大日本恵登呂府」と書いた標柱を建てて、ここの土地が日本の領土であることをあらためて明らかにした。


  • ロシアの公使アダム・ラクスクマン漂流民※大黒屋光太夫らと根室に来航したことにより、根室が日本の歴史の表舞台に登場していく。

 1792年9月24日、ロシア最初の遣日使節アダム・ラクスマン一行は、帆 船エカテリーナ号でオホーツク港を出港し、同年10月20日に根室に入港しま した。冬が近づいていたのでエカテリーナ号を弁天島につけ、乗組員42名は上 陸して家を建て、翌年6月15日までの8カ月間、根室で過ごしました(年月日 は全て現在の西暦に換算しています)。当時の根室には、松前藩の役人・商人 ・アイヌの人々らが数十人住んでいました。ラクスマンは漂流民の返還の名のも とに、通商交渉と来航目的を告げ、日本側は直ちにこの事実を松前に知らせまし た。すぐに松前藩と江戸幕府から、根室へ交渉の役人らが着きましたが、本交渉は松前で行われました。


(集落の起源と名前の由来)

  • 1790 年(寛政2年)に松前藩の運上所がノッカマップ(現:根室市牧の内)から根室に移転したのが、集落の起源となった。アイヌ人に嫌われたノッカマップという場所を避けたのが移転 の理由であったという。根室は「子モロ」(子はネの変体仮名)「根諸」などと書き、河口に流木が寄り集まる小川からとられたという。また、アイヌ語のニムオロ(木の繁るところ)からとられたという説もある。

※元ノッカマップ(現:根室市牧の内)→

  • 1799年(寛政11年)に東蝦夷地が天領になると、根室の運上所は根室会所と改められた。

■根室関連名所

※納沙布岬 横死七十一人之墓

※近藤重蔵、最上徳内、松浦武四郎

※近藤重蔵が作製した蝦夷地図(1802年)

※アダム・ラクスクマン、大黒屋光太夫

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■文政時代

  • 1821年(文政4年)には松前藩領に復した。


■安政時代

  • 1855年(安政2年)再び天領となった際、仙台藩が出張陣屋を築き警固を行った。


■ ■ 根室国時代 ■ ■

a nemuro land era

■明治時代

  • 1869年8月(明治2年)北海道11ヶ国86郡が制定され、今の根室市に相当する地域は根室国に含まれ花咲郡と根室郡が置かれた。
  • 1869年9月(明治2年)開拓使の松本判官が属僚とともに移住民130人を率いて来住し、開拓使役所を根室に置く。和田地区が根室開拓使役所の管轄となる。
  • 1869年10月(明治2年)開拓使の根室出張所が置かれる。
  • 1870年 6月(明治3年)東京府に編入。
  • 1870年10月(明治3年)19日付けで根室国3郡の東京府管轄を廃止。
  • 1871 年5 月(明治4年) 開拓使役所を根室出張開拓支庁と改称
  • 1872 年(明治5年)根室出張所を根室支庁と改めた。 これら官庁は東北海道の行政を統括する役目も持 っていた。
  • 1875年(明治8年) 根室町区画が完成し、町名を定める。
  • 1877年(明治10年)漁場持制が廃止され、少数商人の支配がなくなると、根室に永住する人も増え、 商店が並ぶようになった。
  • 1880年(明治13年) 戸長役場が置かれる。

 

※根室国地図



■ ■ 根室県時代 ■ ■

a nemuro prefecture era

  • 1882年(明治15年)根室県となる。根室市は1882年から1886年までは、根室県の県庁所在地であった。
  • 1886年1 月(明治19年) 北海道庁が設置されると、根室県は廃止され、 12 月まで一時的に根室支庁が置かれた。和田地区に屯田兵440戸が入地し、和田村を建設する。和田村・落石村・昆布村の各村を管轄とする、和田村ほか二カ所戸長役場を設置する。
  • 1886年(明治19年)「根室原野植民地区画」調査が行われ、 この年から和田屯田兵による大量入植が行われた。明治初めの根室は北海道東部最大の町であった。周辺の海域で働く漁業労働者の一時的な滞在地で。人口の季節変動が大きかった。

※日本:1889年(明治22年)大日本帝国憲法発布。衆議院議員選挙法・貴族院令など公布。市制・町村制が施行。

  • 1897年(明治30年)今までのものよりずっと狭い根室支庁が置かれる。

※三県一局時代の根室県

■根室関連名所

※和田屯田兵村の被服庫



■ ■ 根室町時代 ■ ■

a nemuro prefecture era

  • 1900年(明治33年)7月1日和田村ほか二カ所戸長役場の管轄に、穂香村・厚別村・幌茂尻村の各村を入れ、和田村ほか5カ村戸長役場と改める。歯舞村の戸長役場を友知村に設置し、友知以下6カ村を区域とする。北海道一級町村制施行により根室郡本町・琴平町・弁天町・汐見町・千島町・鳴海町・有磯町・松ケ枝町・花咲町・弥栄町・梅ケ枝町・緑町・常盤町・弥生町・清隆町・平内町・光和町・定基町・松本町・根室町、花咲郡花咲村・友知村(一部)が合併、根室郡根室町となる。

※日本:日露戦争:1904年(明治37年)2月8日 - 1905年(明治38年)9月5日)は、大日本帝国とロシア帝国との間で朝鮮半島とロシア主権下の満洲南部と、日本海を主戦場として発生した戦争である。両国はアメリカ合衆国の仲介の下で終戦交渉に臨み、1905年9月5日に締結されたポーツマス条約により講和した。

  • 1906年(明治39年)4月1日 和田村は花咲郡昆布盛村、落石村、根室郡和田村、幌茂尻村、穂香村が合併、二級町村制が施行され、根室町和田村となる。

※根室町街図(大正初期)

※和田神社の和田屯田兵碑




■大正時代

※日本:1914年(大正3年)第一次世界大戦勃発。大日本帝国がドイツ帝国に宣戦布告。

  • 1915年(大正4年) 花咲群歯舞村に二級町村制施行される。

 

  • 1925年(大正14年)2月13日根室町町章が制定される。市制施行後も引き続いて市章としている。
    カタカナの「ロ」字6個を円形において「ムロ」を表し、中央の「ネ」字の端と連携をとって「ネムロ」とし、赤色は光り輝く未来への発展を表したものです。 


■昭和時代

□(リンドバーグ夫妻の根室来訪)

  • 1931年8月24日(昭和6年)リンドバーグ夫妻が北太平洋航路調査で根室市根室港に着水し、根室に2日間滞在し、二美喜旅館に宿泊、花咲小学校での歓迎式、落石無線局も訪れたあと現代の北太平洋航路のルートを開拓。

□(根室空襲による壊滅的被害)

  • 1945年7月14日(昭和20年)北海道空襲の際には死者 369 人を出したほか、市内の大半が焼失し壊滅的被害を受けた。また、花咲群歯舞村はソ連軍の侵攻によって北方領土が占領される。村役場は根室半 島側にあったために接収を免れるが、実際の行政権の範囲が同半島側のみになり人口は減少し、産業、経済へ大打撃を受ける。
  • 1945年8月15日(昭和20年)昭和天皇による終戦の詔書の朗読放送(玉音放送)

□(北方領土返還運動の始まり)

  • 1945年12月1日(昭和20年)当時、根室町長だった安藤石典が、北方四島をアメリカ軍の占領地域にして欲しいと、根室町長名で第1回目のマッカーサー元帥に陳情する。米軍占領地司令官に過ぎないマッカーサーに、陳情内容を実現する権限はまったくなかった。これが、北方領土返還運動の始まりとなる。
  • 1946年8月6日(昭和21年)元島民と根室町民を中心に安藤石典町長を会長とする「北海道附属島嶼復帰懇請委員会」が誕生し、安藤石典、北海道附属島嶼復帰懇請委員会会長名で第2回目のマッカーサー宛陳情。同日、午後4時半頃、ホイットニー准将に面会。以後、この組織が母体となっ て北方領土返還運動が進められる
  • 1946年11月29日(昭和21年)根室町長、安藤石典、GHQ命令により、公職追放。根室町長職を失う。
  • 1947年11月29日(昭和22年)初めての住民大会となる「北海道附属島嶼復帰懇請根室国民大会」が開催され、この大会で採択された北方領土返還要求の宣言と決議は、連合軍最高司令官や政府に送付された。

■根室関連名所

北海道無線発祥の地 (落石岬)

といわれている落石無線電信局

※根室空襲

根室空襲を伝えるハワイの新聞記事

※北海道附属島嶼復帰懇請根室国民大会



■ ■ 根室市時代 ■ ■

a nemuro city era

  • 1957年8月1日(昭和32年) 根室郡内の和田村と合併、市制を施行し、根室市が誕生する。
  • 1959年4月1日(昭和34年) 根室市に花咲郡歯舞村を併合する。
  • 1967年(昭和42年)根室市の人口が49,000人を越える。
  • 1968年(昭和43年) 開基100年記念事業を実施する。根室市民憲章を定める。
  • 1973年(昭和48年)6月17日12時55分に地震が発生。M7.4(気象庁)、震源は根室半島南東沖の北緯42度58分、東経145度57分の地点で、震源の深さは40km。気象庁はこの地震に対し、1973年6月17日根室半島沖地震と命名した。釧路と根室で震度5を観測し、地震発生から11分後の13時6分に北海道の太平洋沿岸、それから7分後の13時13分に東北地方の太平洋沿岸に津波警報がそれぞれ発表された。根室市花咲港で最大2.8mを観測したのをはじめ、太平洋沿岸各地に津波が到達した。浸水被害が300棟近くに達し、負傷者26人であったが、幸いにも死者は出なかった。
  • 1977年(昭和52年) 経済専管水域200カイリが施行される。

■根室市民憲章

 わたしたちは、太平洋とオホーツク海に望む日本の東、白鳥の群れとぶ美しい自然のなかに生きる根室市民です。

 わたしたちは、たくましい開拓精神とゆたかな北方文化をうけつぎ、更に理想の郷土をきずくため、開基100年に当たりこの憲章を定めてあすへの誓いといたします。

 1.郷土を愛し、美しいまちをつくります。

 1.健康で働き、豊かなまちをつくります。

 1.教養をたかめ、文化のまちをつくります。

 1.きまりを守り、住みよいまちをつくります。

 1.生活を楽しみ、明るいまちをつくります。

 1.北方領土の復帰をはかり、平和なまちをつくります。




■平成時代

  • 1991年(平成3年)12月ソ連崩壊
  • 1992年(平成4年)公海でのサケ・マス沖取り禁止となる。
  • 1993年(平成5年)1月15日20時06分07秒、釧路沖地震は、北海道釧路市南方沖15km(北緯42度55.2分、東経144度22.4分、深さ101km)の太平洋を震源として発生したM 7.5の地震。この地震は、沈み込んでいる太平洋プレートの二重深発面の下側のスラブ内を震源とした地震であった。

  • 1997年(平成9年)花咲港への年間のサンマ水揚げが 、 量 ・ 額ともに日本一となる。
  • 2008年(平成20年)11年連続して花咲港へのサンマ水揚げ日本一(数量・金額)を達成する。 
  • 2011年 (平成23年) 3月11日金曜日午後2時46分東北地方太平洋沖地震発生。根室市花咲港に17時20分3.2Mの津波が押し寄せ冠水

 

□(相次ぐ高潮災害とサケ・マス流し網漁禁止)

  • 2014年(平成26年)12月17日低気圧による根室港及び周辺地域の高潮被害が発生。
  • 2015年(平成27年) 6月 29 日ロシアのプーチン大統領は、連邦法第208号「連邦法「漁業及び水産資源の保護について」の改正について」に署名しロシアの200カイリ水域での流し網漁を禁止する法律が成立。
  • 2015年(平成27年) 8月 10日から11日の金刀比羅神社例大祭期間中局地的集中豪雨の影響で高潮が発生した。
  • 2015年(平成27年) 10月 9 日台風23号から変わった温帯低気圧の影響で高潮が発生した。床上・床下浸水5軒、屋根の剥離など108件の高潮被害を受けた。短期間で3回目の高潮被害。
  • 2016年(平成27年)1月19日低気圧による根室港及び周辺地域の高潮被害が発生し、市内の約9700人を対象に避難勧告が発表される。